2009/09/23

9月18日『戦場/海辺』

090918曇天。
午前から、御前崎での最初のシーンをビデオ撮影する。
海辺を古い運搬用自転車を押しながらよたよた歩く日本兵のシーンである。
自転車の荷台には、楽器、絵具、スクッチブック、カンバス、T定規、トルソ、花など、表現や芸術を象徴する物品を載せている。この載せ方自体が絵になっていないといけないので、いろいろ工夫する。自転車や載せる物品を浜辺までみんなで運ばないといけない。重い撮影機材もある。行軍という様相を呈する。
よたよた歩く日本兵が倒れ、自転車も横倒しになるシーンまで敢行。自転車が横倒しになると当然、荷台の荷物も地面に叩き付けられる。自転車や荷物が、その結果どうなるかわからないが、やらないわけにはいかない。倒れる演技をする私の耳もとで鈍いグシャッっという音。あまりよい響きではない。交通事故に遭遇したかのようである。どういう状況かは日本兵役の私にはすぐにはわからない。「カット!」の声がはいるまで、砂浜に倒れたまま動いてはならないからである。
カットがはいり恐る恐る倒れた自転車を見る。案外無事だった。荷物もガタは来ているようだが致命的ではない。

午後、マリリン・モンローが脱ぎ捨てた、砂上の白いドレスが血で染まるシーンと、その血のドレスを海で日本兵が洗い、洗っているうちに純白の白い布のかわるシーンを撮影。すべてやりなおしが利かないので、ぶっつけ本番の賭けとなる。
海でドレスを洗うシーンで、予想外の波が押し寄せた瞬間があった。押し寄せる波も怖いが、それが引いて行くときが危ない。引きずられまいと必死にふんばって洗い続ける。このシーンが終わり海から出ようとすると足が動かない。波とともに砂も押し寄せてきていて、足首まで砂に埋まっていたのだ。

夜、大阪から新幹線で大村邦男さん、山口繁雄さん、吉田恵子さん。車で荷物を積んで田中之博さんが合流。みんな兵士役なのだが、演技だけでなく、本当に兵士のようにいろいろな作業もお願いしなければならない。しかしその夜は、まずは前祝いの乾杯、そして夕食。
ホテルに戻り、岸本さんの17日撮影ぶんをみんなで鑑賞、明日の段取りを打ち合わせする。
*写真は浜辺に倒された自転車


9月17日『出発』

本日より、御前崎(静岡)で硫黄島作品のロケ開始。
午後9時前に、大阪から掛川に到着。迎えの車を待つ。車がないと動きがとれない土地柄である。青木君が迎えに来てくれる。宿泊先のホテル玄に到着。
ビデオ撮影の岸本康さんと岸本チームの青木君と鈴木君。大阪から私と同行した小池勝行さんとナカヒガシユウコさん。撮影に使う古い運搬用自転車や撮影に使用する小物などを満載して大阪から車で来た写真撮影の福永一夫さん。そしてNHK取材班の城さん達。無事第一陣のみんなの顔がそろう。
「ピカソになる」撮影が13日までかかり、その翌日に絵コンテの最終版を仕上げ、15、16日は朝から晩まで、連絡や足りない小物の準備などにあけくれた。強引にロケ撮影にこぎつけたという感じ。しかしともかくも御前崎に到着できて安堵する。


2009/09/14

2009年9月13日

090913朝から、ピカソのポートレイト写真を、私の顔の大きさになるまで拡大コピーして、目の部分を切り取り、自分のまぶたに貼付けてみる。つまり昨日から問題になっている「ピカソの目」の問題を解決するために、「ピカソの目」をピカソさんからいただいて、私自身の目のかわりに「ピカソの目」を移植してみようと考えたのだった。「ピカソの目」をもらい、ピカソの眼差しになろうというわけである。
この試みがおもしろいのは、「ピカソの目」をまぶたに貼付けた時、とうぜん私は目を閉じなければならないのだから、外界を見る事が不可能になる。そういう内なる眼差しになるという点である。ピカソは明るい光のような存在である。その光を内なる光としてとらえないとけなくなるという、そういう眼差しの体験はちょっと気になる。
午後からテレビ取材陣、カメラ雑誌の人々なども含む、いささか混乱した環境のなかで準備が始まる。メイクが終了し撮影にはいる。やはり「目」がうまくいかない。なんどもトライするのだが、もうひとつ、よくない。途中で、例の「ピカソの目」の移植に切り替えるが、思ったほどおもしろくないので、すぐにやめ、やはりナマの私の目でピカソの目チカラを出そうと悪戦苦闘する。
ポラ写真を27枚ほど撮影、ポーズのチェックを繰り返しているうちに、自分の中に「ピカソになるパターン」のようなものが育ってくる。ちょっとリキミがとれて、自然なまとまりになってくる。すると、スーッと、間近にピカソがいる状態になる。劇的でもなんでもなく、日常のありふれた一コマの生活者としてのピカソが現れて、「ああ、ピカソさんだ」と納得できる気配が満る。
完成形が生まれ、後片付けをして、17日からはじまる御前崎でのロケの打ち合わせや実験をやり、テレビ取材のインタビューを終えて、帰宅は午前零時を回った。
*写真は、「ピカソとしての私」のスナップ風景


2009年9月12日

090912「ピカソになる」写真撮影、一日目。扉、棚、テーブル、調度類の設営、カメラ位置、照明の決定、カツラの毛の植毛などを手分けして進める。夜になって、テスト撮りをする。雰囲気は出来てきた。しかしまだピカソではない。何が問題か。たぶん「目」だ。ピカソの強い「目」の光が生まれないと、ピカソは蘇らない。「目」が明日の課題になるだろう。
*写真は、設置の終わったピカソの部屋


2009/09/12

2009年9月9日

09090912日と13日の両日、「ピカソとしての私」を撮影する予定になっている。
そのための準備に忙しい日々。ピカソ(としての私)の前にはテーブルがあって、そのテーブル上にはオブジェが必要で、それを作っている。本来はお皿や瓶なのだが、ここにアレンジを加える。思いついたのは、ピカソの絵風の皿などである。名作「ゲルニカ」の中の顔や手などのおもしろい形をもとに、オリジナルな調度類を用意したい。でもそんなものは売っていないから、自分で作るほかない。
作っていると、ピカソだって名も無い画家だって私だって、みんな等しくこの「作る」という創造の場には足を運んでいるんだという実感が湧いてくる。「作る」瞬間は、みんな同じ空気を吸っている。そう思える瞬間に立ち会えるのは幸せだ。
*写真は、私が作ったピカソ的オブジェ


2009年9月8日

090908夢を見る。
私は誰かと話している。こんな話だ。
「内なる太陽というものがあると思うんです。赤々と燃えるね。しかし内なる太陽なんて存在は、青空で輝くあのまぶしい太陽がないとありえません。内なる太陽は、外部の太陽によって火を灯すわけです」
すると、聞いていた人が質問した。
「目の見えない人にとって、内なる太陽とはどういったイメージなんでしょうか。外部の太陽を視覚的にとらえない場合、内なる太陽を人はどのようにして獲得するのでしょうか」
「私は視覚芸術にたずさわる人間です。視覚は人の優れた能力です。しかしそれがあまりに特化しすぎた結果がもたらす不幸というものが、確かにあります」
私は冷や汗を背中に感じながら、しどろもどろ答えた。
*写真は近所の忘れられた看板


2009年9月7日

090907夢を見る。
なんでも言うことを聞いてくれる人型ロボットが横にいる。
私がいろいろ独り言を言うと、察知してなんでもやってくれるから大変助かる。
ある時、私はこんな独り言を言おうとした。
「一頃、狭いと思ったが、以外と私の仕事場は大きいかも知れない」
ところが、「一頃、せ‥‥」というところで、咳が出て続きを言う事ができなくなった。
ふと見ると、ロボットがいなくなっていた。
「一頃、せ‥‥」=「ヒトコロセ」=「人殺せ」
*写真は鶴橋駅前の風景